LOGIN当時、瑛介の傷は深刻だった。弥生は弘次が治療を拒むのではないかと怯えていた。もし治療が遅れれば、彼は目を覚ますことなく命を落とすか、重い後遺症を残すかもしれない。だからこそ、彼女は弘次と衝突しながらも、結局瑛介を解放させることに成功したのだ。そして、自分が弘次と交わした約束を思い出した。瑛介を逃がす代わりに、自分が残ると決めたからこそ、弘次は彼を手放したのだ。......でも、自分はまだ弘次に何も伝えられていない。彼を待たせたままだ。あの時、弥生は直感的に「彼は別れを告げようとしているのでは」と思った。確証はなかったが。そう思って、彼女は問いかけた。「......私、どれくらい眠っていたの?」「どうした?」「自分がどれほど離れていたのか、知りたいの」「一日だ」弥生は唇をかすかに噛んだ。たった一日か。その間に何が起きてしまったのか。彼女が沈み込むのを見て、瑛介は理由を掴めずとも、その感情が良いものではないことだけは察した。「......どうした?」「何でもないわ」そう口にしても、思考の渦からは抜け出せない。瑛介は彼女の様子に眉を寄せ、逆に尋ね返した。「どうして記憶を失った?覚えているか?」突きつけられた問いに、弥生は呆然とした。そういえば、目を覚めたから、一度もなぜ記憶を失ったのかを考えたことがなかった。「......よく分からない。ただ、目を覚ましたとき、頭を怪我していたみたい」その言葉に、瑛介は即座に弥生の額を注視した。傷痕が見当たらず、今度は後頭部を確かめた。「後ろを打ったのか?」「......多分そう」彼はしばし黙り込み、それから低く言った。「後で必ず検査を受けろ」弥生は彼の言葉を受け止めながらも、ふと問い返した。「検査はいいけど......あなたのほうは?」「......何?」「私の記憶が確かなら、あの場所に行ったのは取引のためよ。私が残る代わりに、あなたを逃がすという約束で」瑛介は険しく眉をひそめた。あの時、心を許さなければ、こんなことにはならなかった。傷を負って昏睡に陥り、彼女を危険に晒してしまった。男として、彼女を守れなかった。「友作から聞いたわ。あなたが去ったとき、重傷で昏睡していたって」弥生の声
危害を加えていないならいい。エレベーターの外に澪音がいたのだから、彼女が中にいた友作を助けることもできるはず。大丈夫だろう。ただ、弘次に責められはしないか、それだけが気がかりだった。「心配するな。友作は以前、お前を救った。僕はそんな恩知らずじゃない」その言葉に、弥生は小さく感嘆した。「......やっぱり、彼は私を助けてくれたことがあるんだ」どうりで彼を見たときに、どこか特別な感覚を覚えたわけだ。記憶がなくても、身体の反応は正直で、誤魔化せない。彼女の言葉に、瑛介の眉がわずかに寄った。「......そのこと、覚えてないのか?」弥生はハッとした。彼はまだ、自分が記憶を失っていることを知らない。自分が彼を認識したからこそ、気づいていないのだ。話すべきか逡巡していると、瑛介が問うた。「......記憶は大丈夫?頭を怪我したのか?」弥生は隠さず、静かに頷いた。「ええ」やはり本人の口から告げられると、瑛介の胸は裂けるように痛んだ。「......全部、失ったのか?」次の瞬間には顔色を変えていた。「違う......全部じゃないだろう。だって、僕のことは分かったんだろう?」「あなたの写真を携帯で検索したの」弥生は淡々と答えた。「あとは、友作が教えてくれたことを覚えていただけ」その答えに、瑛介は言葉を失った。「......何だと?」目の前の弥生が自分を忘れていた。ただ一枚の不鮮明な写真と、友作の説明だけで認識していたと知り、衝撃に言葉をなくした。「あなたの写真はほとんど出てこなかったわ。見つけたのは、遠くから撮られた一枚だけ。顔立ちも判別できなかった」瑛介の胸は息が詰まるように痛んだ。自分は彼女が記憶を失っていたことを知らずに救い出した。そのときの彼女はただ一枚の写真を頼りに、自分を信じていたのか。奥歯を噛み締め、彼は吐き捨てるように言った。「顔も分からないような写真で、よく僕についてきたな。悪意を持つ人間だったらどうするつもりだった?」意外な言葉に、弥生はきょとんとした。「......私はついて行ったわけじゃない。あなたが抱えて行ったのよ」喉に詰まるものを感じ、瑛介は黙り込んだ。ようやく搾り出した言葉は、苦いものだった。「じゃあ......誰に抱え
彼女はどうして気づいたのだろう?おそらく車中ですでに察していたのだろう。途中まで尾行して、やがて姿を消した。弥生が保護されたときに乗せられたのは、尾行で使われた車だった。前後の経緯を考えれば、仕掛けたのは彼らだと彼女は理解できた。「エレベーターの中で電話をかけていた男も、あなたの仲間?」弥生が問いかけると、瑛介は彼女の唇の端を指で拭いながら頷いた。「ああ、うちの人間だ」やはり。弥生があの時違和感を覚えたのも当然だ。大きなホテルなのに、待っている人がほとんどいなかった。不自然だと思った矢先に、あの男があまりにも偶然に現れた。そして、ちょうど二階に差しかかったところで故障が起き、瑛介が現れた。全てが仕組まれたのだ。水を飲むのをやめ、冷静に状況を整理して話す弥生に、瑛介は内心満足していた。彼女が目を覚ます前、医師はこう言った。「外傷はありません。だが頭に影響があるかどうかは、目覚めて会話が成り立つかどうかで判断できます」幸い、彼が取り戻した弥生には、栄養失調以外の異常はなかった。だが瑛介の口元の笑みは長く続かなかった。弥生が辺りを見回し、ふと問いかけた。「......ここはどこ?」その一言に、瑛介の動きが止まった。「......何だって?」声色が変わったのを、弥生も感じ取った。自分の言葉に何か問題があったのかと眉を寄せ、もう一度周囲を見渡した。「聞きたいのは、ここがどこかってことよ?」二度目の確認に、瑛介の笑みは完全に消えた。ここは、彼女が子どもたちと暮らしていた場所なのだ。本来なら、目覚めた彼女がすぐに子どもたちと会えるようにと考えたのだ。だが母親は二人を連れて田舎の祖母のもとへ行ってしまっていた。だから、まずは彼女をここで休ませようと思った。それなのに、彼女はこの家を覚えていないのか?瑛介の呼吸がわずかに乱れたが、顔には出さず、試すように口を開いた。「......自分の家を忘れたのか?」弥生の表情に大きな変化はなく、ただ静かに頷いた。「......そう」続いて、彼女は何かを思い出したように顔を上げ、急いだ声で言った。「そうだ、私と一緒に出てきたあの女の子と男は?どうなったの?」澪音はただのアルバイトの子だ。友作もずっと
「うん、大丈夫」「でも......」「心配するな、自分で何とかするから」自分の体を危険にさらすわけにはいかない。彼女を救いたいのなら、まず自分が無事でいなければ。そうでなければ彼女を守れない。弥生は最初、瑛介がどう処置するつもりなのか分からなかった。だが空港に着いてから、そこに医師が待機しているのを見て悟った。瑛介は事前に手配していたのだ。到着するや否や、すぐに治療を受け始めた。その光景を目にして、弥生はようやく胸を撫で下ろした。緊張の糸が切れると同時に、全身から力が抜けた。長い一夜を過ごした疲労が一気に押し寄せ、彼女は瑛介が治療を受けているのを見届けると、視界が暗転し、そのまま意識を手放した。「彼女の容体は?いつ目を覚ます?」「栄養不良と心労のせいだと思います」ピッ......ピッ......耳に様々な音が入り込み、次いで手に鋭い痛みを覚えた。「他に問題はありません。体に外傷もないですし、目を覚ましたら養生させれば大丈夫です」声は遠ざかったり近づいたり、断片的に響いた。やがて完全に聞こえなくなり、長い暗闇に沈んでいった。どれほど時間が経ったのか分からない。意識が戻ったとき、窓からは日差しが差し込んでいた。長く眠っていたせいで、頭も体も鉛のように重い。ベッドの傍らには、突っ伏して眠る人影があった。瑛介だ。彼は弥生の枕元で眠り込んでいた。わずかに身じろぎすると、その気配で彼は目を覚ました。「どこか痛むか?」瑛介はすぐさま身を起こし、顔を覗き込んだ。弥生は瞬きをして、かすかに首を振った。「大丈夫。特に痛いところもないわ」近くで見る彼の目は赤く充血し、疲労の色が濃い。鼻先が触れそうなほど距離は近い。「本当に?」まだ疑わしげに彼は身を引かない。その距離に弥生の頬は熱を帯び、息苦しさを覚えた。身を引こうとした瞬間、彼の唇が重なった。冷たい唇が、ただ触れるだけで静かに留まった。その瞳には深い想いが滲んでいた。長い沈黙に弥生は耐えきれず、顔をそらした。瑛介は一瞬驚いたように目を瞬き、唇を噛んでから少しだけ距離を取った。「喉は渇いてないか?」声は少しかすれていた。弥生は自分の感覚を確かめ、確かに口が乾いていると気づいた。「......え
本来、瑛介は健司に処置を任せるつもりだった。だが健司が救急箱を手にした途端、弥生がそれを受け取ってしまった。健司は弥生と瑛介を交互に見やり、最後に瑛介が小さくうなずくのを確認すると、大人しく最後列の席へ下がった。「まだ放さないの?」弥生は彼に手首を握られたままの腕を見下ろした。瑛介は自分の掌にすっぽり収まるその細い手首を見つめた。折れそうな弥生の体に、眉間が深く寄った。ほんの少し会わない間に、こんなにも痩せてしまって......瑛介の胸は痛みと後悔で締め付けられた。あの時、心を許してしまったのが間違いだった。後悔してもしきれない。強く奥歯を噛みしめ、ようやく彼は手首を解放した。弥生は余計な言葉を言わず、手を引き戻すと救急箱を開け、処置に必要な薬品を取り出した。瑛介はその一部始終を伏し目がちに見つめていた。先ほどまでは気づかなかったが、改めて彼女の顔をよく見れば、頬はこけ、骨ばった輪郭が浮かび上がっている。唇も顔色も血の気を失っていた。見れば見るほど胸が痛み、後悔が深く沈んでいく。弥生は必要なものを揃えると、彼の方へ身を寄せた。手にしていた布を外そうとしたが、瑛介は無意識に腕で遮った。弥生は顔を上げて彼を見つめた。「......健司に任せた方がいいんじゃないか」彼はそう言った。「私じゃ駄目?」「......君を怖がらせるかもしれない」「このまま放っておいたら、気を失ってしまうよ」弥生の言葉に、瑛介は暫く沈黙したのち、観念したように手を退け、シャツのボタンを外した。その傷は新しく、以前の傷とは違う箇所に走っていた。命を奪いかねないほど深い傷。意識を取り戻したとき、医師は外出を控えたほうがいいと言った。だが彼は止まらなかった。案の定、外に出てから出血は止まらず、応急処置でごまかしてきたのだ。唇の色も悪い。弥生は黙って俯き、丁寧に処置を続けた。どれほど時間が経ったのか分からない。ようやく顔を上げ、静かに言った。「......終わったわ。でも私は医者じゃないから簡単な処置しかできない。これからどこへ行くの?そのときに医者に診てもらわないと」「空港にいく」瑛介が答えた。「空港?」弥生は驚いて顔を上げた。「そうだ。君を連れて帰国する」前回、海
「そうなの?」弥生は疑わしげに彼を見つめた。「本当に大丈夫なの?」「大丈夫だ」そう言いながらも、瑛介は彼女の手首を放さず、まるで近寄って傷口を見られるのを恐れているかのように強く握り締めていた。弥生は不快そうに言った。「放して」「嫌だ」瑛介は静かに首を振った。月光を映した瞳は、驚くほど柔らかかった。「会いたかったんだ......もう少しだけ、このまま」弥生は言葉を失った。後ろの健司は思わず気まずくなり、視線をそらした。瑛介が、こんなに不器用なことを言うなんて......怪我を隠す口実がこれとは。だが、弥生は簡単にはごまかされない。たとえ「会いたかった」と囁かれて感動したとしても、彼の怪我の方が気がかりだった。「どんなに会いたくても、傷は見せてもらうわ。せめて処置くらいさせて」しかし瑛介は首を振り続け、彼女の手を放そうとはしなかった。視線を落とし、逆に問い返した。「君の方こそ、どこか怪我してないか?それに......足は?」さきほど車から降りたとき、弥生が車椅子に座っていたのを見ていたのだ。弥生は一瞬きょとんとしたが、すぐに悟った。「私の足は平気。ただ最近は体が弱っていて、だから車椅子に座っていただけよ」「体が弱っている?」その言葉に、瑛介の瞳が鋭く細められた。「......あいつに虐待されていたのか?」その同時に、彼の気配が一気に険しく、危ういものへと変わった。弥生はその変化を感じ取り、少し困ったように言った。「違うわ。虐待されてない。私自身の問題よ」「どういうことだ?」彼はまだ不安げに問い詰めた。だが弥生は首を横に振り、ただ静かに彼を見つめた。「まあ、大丈夫なの」瑛介の眉が深く寄せられた。「あなたこそ『平気だ』と言ったじゃない。傷を見せてくれないなら、私も話さない」と弥生は言った瑛介はその言葉で、彼女が怒っている理由を悟った。唇を噛み、しばし黙り込んだ末に、小さく息を吐いた。「......戻ったら、医者に全身を診てもらおう」弥生は心の中でため息をついた。結局、彼は自分の傷を見せるつもりがないのだ。片方の手で彼女の手首を押さえ込み、もう片方の手で傷口を押さえ続けている。その間にも、先ほど押し当てたハンカチはじわじわと